2010年11月13日

札幌ハムプロジェクトのサンタめん見てきました。

11月8日、蛸蔵にて。
札幌ハムプロジェクトさんの作品「サンタめん」を見てきました。

札幌ハムプロジェクトというからには札幌の劇団なのであります。
札幌ハムプロジェクトと名乗っておいて佐渡から来ました!というのでは困ります。
また、苫小牧から来ました!では、ぼくら北海道に馴染みのない人間では
「惜しいのか?」と一瞬思ってしまいますが
地図を確認した所、これは惜しいのかどうなのか微妙な所で
本来は「全然違うじゃん!」の方がおもしろいと思って「苫小牧」を出したというのに
なんだよ、近いのか遠いのかはっきりしねえじゃんかなんて企画倒れな感じがし始めて
「苫小牧」を思わず選んだことを猛烈に反省するという結果に陥ったのでありました。

ちなみにぼくは東京都町田市在住時代に『東京エレガントナイト』という
演劇ユニットを組みましたが
そういう意味では東京はとても寛大だと思います。
ぼくが今、高知にいながらも『東京○○』を名乗っても許してくれそうな気がします。
東京03の向こうを張って東京042なんてどうでしょうか。
まあ、そこまで町田市にこだわらなくてもいいんですが。

話が大きく蛇行しました。
サンタめんを見てきたのです。

まだこれから九州、そして関西、追加公演の岡山もあるので
中身に関して詳細を語るのはやめにしますが。
いやあ、面白かった。
とてもクオリティの高いお芝居でありました。

クオリティという言葉はとても難しい多様な言葉で
まあ、単純に訳せば、質、ということなのでしょうが
何が難しいって、質というのは感じる側のその視点によって
随分価値が変わるものだと思うのですよ。
今回のお芝居は
何しろ4人しかいないのに4人とも俳優として出演しちゃってるものですから
出演しながら袖にいる俳優が明かりと音をいじるという
かなり無茶な演出でありまして
そして美術や効果も簡易なもの
例えば照明が作業灯であるとかね
そういうテイストでセットされていました。
しかし、その随所に、気配りのような
つまりそれが演出家の配慮ということなのでしょうが
お芝居を楽しむための仕掛けが細かく用意されていて
そのアイデアの一つ一つが見事で、ハイレベルだと感じさせました。
例えば、例えば、とレポートしたい所ですけどねえ。
これからみる人のために期待を煽った所でやめておきましょう。

いやはや、シアホリでもかつて
口数の多い女たち」で俳優が音を出してましたけどね。
舞台の横にサンプラーを置いて、手の空いた俳優が音を出してましたから。
あの時を思い出して半分懐かしくもありました。
あの芝居には袖という概念がありませんでしたから
音を出してる俳優の姿が丸見えでしたねえ。

また話がそれました。サンタめんに戻りまして。

作業灯だけというのは、ある意味、質が高いとはいえないかも知れません。
そりゃ、しっかり灯体を吊り込んだ方がいいに決まってるから。
しかしね、照明を吊ったからって芝居がよくなるとはいえないのも事実ですよ。
吊った照明がまるっきり無意味ということも、悲しいけれども、あるわけです。
たくさん照明の灯体を吊り込んだ舞台でも
アクティングエリアとずれちゃってろくすっぽ見えない時があるんだから。
そういう舞台を見ている哀しさといったら、これは想像を絶するものがあります。
どれだけ機材をつぎ込んでも、カゲばっかりでストレスを感じる舞台は
やはり質としては低いわけです。
作業灯しか使ってないのに、そういうストレスを感じさせず
しかもその照明が効果的に使われているとしたら
それは言うに及ばず、上質な芝居とはっきり言えるのではないかと。

スタッフワークだけでなく、演技もとても素敵でした。
このお芝居には、たくさんの演劇的魅力が詰め込まれていたように思います。
声を張る演技も、控えめで自然な演技も、
その多様な演技スタイルが矛盾することなく一つのステージに共存していました。
現在の演劇には、これほどまでにたくさんの感覚が詰め込むことが出来るんだと
ぼくは演劇ファンとして純粋に感動してしまいました。

物語もすばらしかった。
主人公のタローくんが、ちょっと頭の弱い子という設定のため
彼に理屈っぽい台詞が用意されておらず
そのため、言葉では表現できない何かがこの作品の大きなテーマになっていました。
この物語の「言葉にならないモヤモヤ」が物語に深みを与え
ラストシーンの「よくわからない感動」につながったと思います。
そう、この話って、自分がどうして感動してるのか、よくわかんないんだよなあ。
それがすごく演劇的な感覚だと思えて、ぼくはとてもとてもグッと来てしまったのでありました。

残念なのはお客さんの数が少なかったことですねえ。
ギャグもとてもおもしろかったのに。
笑いはたくさんのお客さんがいないと大きくつながっていきませんからねえ。
満員の客席で見たらもっと楽しかっただろうに。
来年はもっと宣伝に協力できたらと思いました。
また来年も来てね。
posted by m.hiro at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

パルコ劇場で「裏切りの街」を見てきました。

先日東京で、舞台「裏切りの街」を見てきました。
センセーショナルな演出で話題の劇団「ポツドール」の
三浦大輔さんの演出する作品でした。

ぼくはこれまで三浦さんの作品を見たことがなくて
ただ遠い噂でしか聞いたことがなく、
「すげーな」と
「東京は怖かところばい」と
単純にそういう印象を受けておりました。
何が怖いか、センセーショナルかと言えば
「ポツドール」の作品では
直接的な性表現、暴力表現があるということらしいのです。

東京にいる時分から、表現の過剰な劇団を避けて来ましたが
俺もおとなになったことだし、ここらで一つ、
こういうのも見てみるかと思い立ち、
パルコ劇場に「裏切りの街」を見に行くということに相成ったわけです。

さて、ここからは完全ネタバレでぼくの感想を述べさせていただきます。
これから見ようという方、
また、内容を知りたくないという方はこれ以上は読み進めないでくださいね。




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それでは。

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物語は、20代のニートの青年と40代主婦の不倫を軸に展開していきます。
ニート青年は彼と似た年齢のOLに養ってもらってます。
なんかパッとしない毎日に嫌気が差して出会い系に電話する。

主婦の夫は優しいけどキモくて、性的にもどん欲で
なんかやだなーっていうんでその主婦も出会い系に電話をしたのでした。

そして二人は知り合います。

1回目のデートは何もせず
2回目のデートでキスをして
3回目でホテルに行く。
ここで第一部終了。

まあ、あらすじはざっくりこんなもんにして。


始まって早速、ありましたよ直接的な性表現というやつが。
普段のポツドールではどんな演出でやってるのかわかりません。
ぼくは今回の舞台におけるセックスしか見てませんから。
なんちゅうか、その、ぼくにはこの作品における「セックス」の意味づけが
よくわかんなかったです。
この芝居に必要か?とも思いました。

「裏切りの街」は、正直に言ってすごい作品だと思うのですが
それは決してあからさまなセックス表現があるからではなくて
とても細かい演出的なテクニックというか、
丁寧な表現で登場人物の心の動きを表現していたからで
たとえばそれは二人が電話してデートの約束を取り付ける
それであわてて服を着替える二人
その描写がとても細かくて丁寧で
二人の心の動きが手に取るようにわかりました。
男は洗濯物の中からTシャツを取りだし、着る前に臭って確かめる。
主婦は鏡を見ながら急いでメイクを直し、慌ててジャケットを着込む。
そして三浦さんが非凡なのは、一度部屋を飛び出したあと
急ぎ足で駅へと急ぐ二人の姿もきちんと舞台に乗せているということ。
普通の演出家ならカットしてしまうシーンも舞台の上にのせることで
芝居自体のリアリティが増していたように感じました。
お見事としか言いようがありません。

さて。
普通の演出家ならカットしてしまうシーンも舞台に乗せている
それが三浦さんの手法だとして
だからこそセックスを舞台に乗せるのだという論理も確かに成立する。
でも、ぼくはそこは決して同じではないと思います。
駅へ急ぐシーンとセックスしているシーン、
これ、同じ?
やる側も見る側も感覚に随分な違いがあると思うんだけど。


……いや、ちがうなあ。
ぼくがなんでこの作品におけるセックスがイヤだったかって
それは違うところに理由がある。
この作品におけるセックスがとても下品で醜いものだったから
ぼくは作品自体にも嫌悪を感じてしまったのです。
腰の動きが単調なんだ。
性行為がすごく機械的に描かれてるんだ。
そこに心の機微がないんだ。
そこに心なんてないってことの表現なんだ。
ぼくにはとても違和感があった。

やってから好きになることだってあると思うんだよな。
また、普段は不細工な女の子でも、
やってるウチにかわいく見えてくることだってあると思うんだよな。
セックスって、とても心が必要な行為だと思うんだよな。
いや、それも人それぞれだろうけどさ。
心なんかいらねーっていうケモノ派の方もいらっしゃるでしょうけど。
でもね、世の中にケモノがいるとしたら
ケモノと同数ぐらいはぼくと同じ考えの人がいたって
いいとおもうんだけど。
作品中にケモノしか登場しないというのはちょっと違うんじゃねえかと。
そう思ったわけです。

単純に居心地がいいとか
セックスしたいとか
その程度のモチベーションでそんなに逢瀬を重ねるかねえ
あんな困難を乗り越えることができるかねえ
中盤戦からいくつもいくつも疑問が浮かんできてしまいました。

第一部がぼくには純愛物語にみえて
「これはおそろしい程の天才の仕事かも知れん」と
どっぷり演劇世界にのめり込んでいただけに
後半第二部における、物語の没個性化に、ぼくは落胆してしまったのでした。

セックスという行為はつまらないものだと思います。
それは、セックスには個性がないからです。
やることは一つしかありません。
誰がやっても同じ事です。
個性がない。
あれやこれや理屈をつけても結局セックスしちゃえば
なんちゅうか、全てから個性が奪われてしまう。

この作品は丁寧にテーブルに並べた素材を
最後は暴力的にひっくり返してしまうような内容で
観終わった後にとても嫌な気持ちになりました。
それは、作品中に自分を見つけたからではなく、
作品中にはぼくがいなかったからです。
この作品にいるのは、誰だっていい誰かであって、
どこかにいるかけがえのない誰かではない。
個性がないっていうのはそういうことで
あの作品にいるのは、ぼくでもいいんだろうけど
ぼくじゃなくたっていいんです。
だったら、ぼくはあんなところにいたくない。
だから作品中にぼくはいない。

そもそも、そんなにセックスしたいか?
そんなに性欲って感情と切り離されてるものなのか?
セックスって否定しなきゃいけないものなのか?
主婦があのニートを好きになっちゃダメなのか?
セックスってそんな単調な作業なのか?
そんなことを考えてしまいました。

登場する人物は全員が誰とも関わり合っていません。
個人が現実の中に点在するだけで、個々が繋がらない。
みんなバラバラ。ただ一人ぼっちで苦悩するのみ。
この作品ではみんながみんな、誰かと強く結びつく発想を持たないんです。
その選択肢がないんです。
関係はとてもライトで刹那的。
あたかもこの世界にはそれ以上のつながりは存在しないようでもあります。
それはある意味、ファンタジーを見ているような感覚でした。
現実的じゃない世界。
誰もつながらない世界。

松尾スズキが何故妻に不満があるのかがわからない。
さとみちゃんはなぜユウイチを捨てないかがわからない。
松尾スズキが愛情における不感症だとしたら、
「なんだよ、お前もかよ!」って思うし
(だって作品中そんな人しか出てこないんだもん)
さとみちゃんがユウイチでもシンジでもどっちだっていいって思ってるなら
「お前もかよ!」って思う。

だーれも傷つかない。
ただ見てるこっちがショックを受ける。
そんな作品でございました。
ぼく以外でご覧になった方は一体どのような感想を抱いたのか
とても気になる作品でもあります。
そして(こんな言い方であれですが)前半は抜群に面白かった
この人は天才だ!と思ったのも事実です。
三浦さんはすごい演出家だと思います。
是非、性表現や暴力のない作品を見たいと思います。
posted by m.hiro at 15:45| Comment(4) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

青シート☆7の公演を見てきました。

かるぽーと3Fガレリアで上演された
青シート☆7旗揚げ公演を見てきました。
演目は「淋しい都に雪が降る」

前回のシアホリでは浮浪者の親子が登場する物語を上演しました。
しかも結末では小学生ぐらいの息子が残飯に入っていたしめ鯖にあたって
食中毒で死んでしまうという身も蓋もないお話でした。
今回の「淋しい……」も浮浪者二人の物語ということで
ぼくたちがやってたお芝居をある意味客観的に観ることができたような
そんな気分になれました。

というのも。
やっぱ浮浪者の物語っていうのは見てて
そんなに気持ちのいいものではないということなんですね。
じゃ、なんでそんな話をするのかという演劇的命題(おお!大上段からの大げさ発言!)が
ここで生まれてきます。
けど、それは一旦置いといて。

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前回、ぼくたちがやりましたお芝居と比べるならばですね。
ぼくたちのやり方はほぼパントマイムでしかも黒ずくめの格好で
観客がだんだんと「あぁ、これは浮浪者の話なんだな」と
わかるような仕組みにしていたのに対し
今日の作品は、かなりリアルな衣装、小道具、もちろん演技に至るまで
作り込んでしっかりと「浮浪者」していたのでありました。

それは小道具へのこだわりにも感じられて
例えばリュックサックの中身もしっかり考えて詰められていたのではないか
アニキが荷物を持ってきて床に置くと、中のビンがかちゃりと音をさせる。
そういうちょっとしたところで舞台のリアリティが増していたように思います。
ビニール袋に入った食い物をマイ箸で食べるとか
酒を飲むくだりとか
アニキが新米の弟分を叩く度に頭から埃みたいなのが飛んでたりして
(それは計算なのかわかりませんでしたが)
そういう細かいところがすごくリアルだった。
いや、プロの舞台でもこういうところがおろそかな時って結構ありますよ。
「触らないだろう」とスタッフが安心しきっているものを偶然俳優が手に取ってしまって
それであっさりと 作り物 であることがばれる。なんてね。

また、客席の座布団の下には段ボール敷かれていて
「あー、段ボールはあったかいなあ」と実感しながらの観劇がリアリティに拍車をかける。
後ろの方では炊き出しなど用意されていたのでその臭いも客席に届き
それが上演中の芝居の内容とリンクしてしまって、ホント、気持ち悪かった。
だって目の前では社会的レベルの底辺にいる二人が拾ったモノ食べてるんだよ。
ぼくは五感を使ったパラドックスの中に落ち込んでしまったような気分になって
なんだか、生きるということの生々しさを感じさせられました。

山岸さんの演技はぼくは初めて拝見しましたが
とても自然でリアルで、すばらしい演技をされていたと思います。
ぼくがとっても好きなタイプのお芝居でした。
つうか、本物の浮浪者かと思いました。
いや、ホントに、山岸さんの演技はすごくレベルが高くて驚いたというのが正直な感想です。

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さて、先ほどちょいと大上段に構えた大げさ発言であります
演劇的命題ってやつですけど。
つまり、なんで好きこのんで浮浪者の話なんて金を払ってまで見なければいけないんだ、というね。
この作品の存在意義とも言い換えていいんだと思うんですけど
それについて、ぼくはヒシと考えた。
くどくど言うのも何ですからいきなりぼくの思った結論を言いますと
つまりこれは、「ステレオタイプから外れてしまった人間」と
「ステレオタイプにはまってしまった人間」の相互理解を描いたのではないかと思うわけです。

それなら別に浮浪者を使わなくてもいいじゃないか、って疑問に思われる節もあるでしょうが
しかし、それを我々と別世界である浮浪者の世界を用いることで
逆に、「どこであっても起こりえること」として描くことができる
つまり、物語に普遍性(出た!普遍性!)を持たせることができるんですね。

この辺の普遍性うんぬんについては長くなるので別の機会に。

安西寅さんが演じた弟分は、これはもう杓子定規な男でありまして
戦争の話をしたがるし、家族やなんやかやを懐かしがるし、
モノを抱え込みたがるし、あまり深いことを考えないし、
ごくごく普通の男でありまして
観客に一番近い、「あー、俺が浮浪者になったらこういう感じかなあ」と思わせる存在であります。
それに引き替え山岸さん演じるところの兄貴分は
何を考えているのか分からない
というか、頑固で多くを喋らず、生きる知恵に長けていて
「あー、この人はすごいなあ」とぼくから見たら遠い存在として映るわけですね。

もし、ぼくの考えるように、この二人の「相互理解」について
つまり、「わかりあうこと」を作品の重大な要素として考えるのであれば
この観客と登場人物の距離感が反転してしまう瞬間
つまり、『弟分が兄貴分に殴りかかろうとするシーン』へ向けて演じられなければならなかったのではないか
そう思うのであります。
あの瞬間、あのシーンで力関係が逆転し、人間性が逆転し、すごいがすごくないになって、ぼんやりがはっきりになる。
だからそれに立ち会った観客は相当に「どきり!」とするはずなのでしょうが
ぼくが鈍感だったのか、さほどのショックを受けることはありませんでした。

うーん。
それともそのシーンじゃないのかなあ。
ぼくの見方が間違ってたのかなあ。

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終演後、シアホリ新人のしおりちゃんと感想を言い合ってて
彼女はラストで二人が死んじゃった!と思ったらしい。
ぼくは脚本を読んでいないのではっきり言えませんが
あそこで死んじゃダメだろ! と強く思った。
もしかしたら脚本では「二人、死ぬ」とかト書きが書かれてるかもしれない。
だからあんな演出にしたのかもしれないけど。
でもさ!死んだら酒が飲めなくなるだろ!
醜くともしぶとく生き残っていくんだよ人間は!
と、ぼくは強く強く思ったのですが、確かにあの演出は死んだともとれるラストシーンで。
その辺もうーん、もっとはっきり見せてくれてもよかったんじゃないかなと思いました。
「死んだ」とも「生きてる」とも取れるラストシーンはちょっとずるいよなあ。

雪が降る意味ってのは、つまり、それも普遍性を描いてるのであって
誰にとっても平等に起こる奇跡ってのが
「雪、ふらねえかな」ってつぶやいた後にホントに降っちゃうってことでしょう。
貧乏人だろうが金持ちだろうが、老人だろうが恋する二人だろうが
みんな平等に、「雪が降ればいいなあ」でホントに降ったら奇跡なんですよ。
ぼくは、そのシーンでも、できればもっと「どきり!」としたかった。

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なんだかんだと書きました。
このお芝居は全体的にとてもクオリティの高い芝居であったと思います。
そして、演劇でしかできなかった空間がそこにあったのも事実で
もっともっとこういう高いクオリティの舞台が高知で上演されるようになればいいなあと
切に願って寒空チャリこいで帰ったのでした。
お互い頑張っていきましょう。
そしてシアホリの次回作もよろしくお願いいたします。
posted by m.hiro at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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